財団設立の考え方
当財団は1969年12月に創設されました。当時はベトナム戦争が苛烈を極めており、南ベトナムには戦争で両親を失った戦争孤児があふれていました。他方、わが国は敗戦の廃墟から立ち上がり、奇跡的といわれる経済発展を果たしていました。
財団の創設者たちは、「繁栄を成し遂げたら、アジア地域や世界のためにも気を配ってゆかなくては国際社会から信用されなくなってしまう。協力というのは経済的利益を分かちあうばかりではなく、他に困っている国があれば苦難を分かちあう姿勢が大事だ」との考え方のもと、日本政府や南ベトナム政府の協力を得て、サイゴン市(現ホー・チ・ミン市)郊外ビエンホアに戦争孤児のための職業訓練学校を立ち上げ運営にあたりました。それが当財団の始まりです。
この創設の精神を引き継いで開始されたのが、アジア諸国の指導者をわが国に招聘する事業や、インドシナをはじめとする難民の救援・定住事業です。このように当財団は一貫してアジア諸国との交流を通じて信頼関係を培い、アジア地域の安定に寄与することを目指しています。現在、世界では、経済的利益を求めて企業の海外進出が拡大し、外国人労働者や移民が増加しています。そのため多くの国や地域で価値観が多様化し、各国固有の伝統や宗教との間で深刻な軋轢が生まれ、それを嫌って排外主義や孤立主義が声高に主張されています。
アジアの安定を希求するなら、自国の伝統的精神と他国の考え方を両立させていかなければなりません。異なる主観がぶつかり合った場合に解決へ導くのは、価値観や文化の多様性をお互いに認め合うことです。そのためには、異なる文化や価値観を持った者への「思いやりのこころ」がなくてはならない、と私たちは考えます。豊かで平和なアジアをつくるうえでは、アジアの人々が共有する穏やかな精神文化の涵養に力を注いでゆくことが必要だと考えます。
アジアに共通の不易の精神「思いやりのこころ」を基礎として、アジアの安定と相互理解を深めるため役に立ちたいと願っています。
沿革
1969~1978年
ベトナム戦争によって生じた大勢の孤児、母子などの惨状を救うため、1968年3月22日に開かれた自由民主党両院議員総会(衆議院280名、参議院139名)で、同党の衆参両院議員全員の歳費から一定期間、所定の額を拠出することが決まりました。これを基本金として、1969年12月12日に設立されたのが当財団です。
設立当時は、ベトナムの孤児、母子などの救済を主眼としていたため、ベトナム孤児福祉教育財団と呼称しましたが、1971年10月、ベトナム一国に限らず、アジアのいずれの国においても同様の救済ができるよう、アジア孤児福祉教育財団と改称しました。また、新たな事業として1977年7月からアジア諸国の社会福祉施設への援助事業が始まり、さらに1978年10月からはアジア各国の福祉関係者の日本への招聘事業を行なっています。
ベトナム戦争によって生じた大勢の孤児、母子などの惨状を救うため、1968年3月22日に開かれた自由民主党両院議員総会(衆議院280名、参議院139名)で、同党の衆参両院議員全員の歳費から一定期間、所定の額を拠出することが決まりました。これを基本金として、1969年12月12日に設立されたのが当財団です。設立当時は、ベトナムの孤児、母子などの救済を主眼としていたため、ベトナム孤児福祉教育財団と呼称しましたが、1971年10月、ベトナム一国に限らず、アジアのいずれの国においても同様の救済ができるよう、アジア孤児福祉教育財団と改称しました。また、新たな事業として1977年7月からアジア諸国の社会福祉施設への援助事業が始まり、さらに1978年10月からはアジア各国の福祉関係者の日本への招聘事業を行なっています。
1979~1989年
ベトナム戦争の終結後、ベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国の難民の流出が頻繁になり、政府は日本に定住を希望する者に対しては定住を認めることを決めました。財団は、政府の委託を受け、こうした難民の救援事業を実施することになりました。1979年10月にはアジア福祉教育財団と改称、今日に至っています1982年1月には定住インドシナ難民を励ます会を実施。1985年5月には念願の本部ビルが完成しました。
1990~2002年
開始当初は年間10名内外で行なっていた招聘事業でしたが、各国からの好評に応え、事業をより一層発展させるために漸時招聘回数を増やし、1996年からは、年3回60名(1回あたり各国5名、4カ国計20名)の規模をもって活動しました。
難民事業本部は、わが国で唯一日本政府から委託された難民救援事業を行なう組織としてアジア情勢の変化を視野に入れつつ、新たな貢献にとり組みます。
2003~2017年
招聘事業は、2003年よりインドシナ三国(ベトナム、ラオス、カンボジア)とモンゴルを、2007年よりブータンを、2013年よりミャンマーを加え年3回60名(1回あたり各国5名計20名)の規模を持って活動しています。招聘回数は2017年5月で112回に達し、累計1,849名の福祉関係者がわが国を訪れたことになります。
さらに、難民救援事業では、2002年に閣議了解にて条約難民への定住支援の対策がとられることとなり、当難民事業本部においても翌2003年よりインドシナ難民と同様に支援を開始しました。なお、インドシナ難民の受け入れについては2005年度末をもって終了し、「国際救援センター」は閉所しました。
2006年4月からは、条約難民を対象に日本語教育、生活ガイダンス、就職あっせん等を行う新たな施設として「RHQ支援センター」を東京都内に設け、定住支援事業を行っています。また、難民認定申請者に対しては、これまで生活困窮者へ保護費の支給を行っていたところ、加えて困窮度が高く宿泊場所の確保が困難な者の緊急宿泊施設として2003年に「ESFRA(エスフラ:Emergency Shelter For Refugee Applicants)」を開設しました。
また、日本政府がUNHCRからの要請を受け、2010年秋から新たに開始した第三国定住難民の受入れと定住のための支援を「RHQ支援センター」において実施しています。
2018~2020年
招聘事業は、アジア諸国17か国を対象として2018年に計3回48名、2019年に計2回30名の福祉関係者を招聘しましたが、2020年においては、新型コロナウィルス感染症のために実施することができませんでした。
2019年12月には、神田の学士会館において財団設立50周年、難民事業本部設置40周年の記念式典を行い、西村明宏内閣官房副長官(当時)、鈴木俊一自由民主党総務会長(当時)、ヘベカーUNHCR駐日代表(当時)、各国駐日大使のほか政財官界から約150名の出席を頂きました。また、設立50周年を記念して、財団の歴史を綴った記念誌を発行しました。
2020年5月から8月にかけて、コロナ禍によって困窮した難民などの定住者を救済するため、支援NGO等を通じて総額約1100万円の食糧支援を実施しました。また、難民コミュニティの要望に応じて、コロナ関連情報を「やさしい日本語」、英語のほか、ベトナム語、ラオス語、カンボジア語、ミャンマー語によって財団のホームページと新設のフェイスブックを通じて発信しました。同年12月に開催した「日本定住難民とのつどい」では、従来のような民族音楽や舞踊のパーフォマンスは行わず、新たに難民コミュニティとの意見交換会を実施しました。この意見交換会には、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーから8つの難民団体が参加し、日本側から当財団と共催の新宿区のほか、3つの支援NGOが参加しました。また、財団では、2020年から定住難民の児童、生徒の学習を支援するための調査を行い、翌年4月より千葉県内において、他のNGOと協力し、これら児童、生徒のための補習教室を開始しました。
難民事業本部では、日本政府の委託を受け、2010年以降、アジア地域から受け入れた第三国定住難民に対する定住支援プログラムを実施しており、2018年度には5家族22名、2019年度には6家族20名が同プログラムに参加しました。国内に居住する条約難民に対する定住支援プログラムも、2020年度以降はオンラインで授業を実施しています。
歴代理事長
初代
松田 竹千代
1969年12月12日〜1976年5月28日
ニューヨーク大学卒業
第2代
奥野 誠亮
1976年5月28日〜2008年3月31日
東京大学法学部政治科卒業
第3代
綿貫 民輔
2008年4月1日~2015年6月8日
慶応義塾大学経済学部卒業
-現在
第4代
藤原 正寛
2015年6月8日~現在
東京大学法学部政治科卒業
米国スタンフォード大学経済大学院修了(博士号授与)
-2010年
-2002年3月
11月25日
-現在
先達のことば
アジア福祉教育財団と私
⒈ 稿を起こすにあたり
平成27年11月19日
日本記者クラブでの102歳の会見
アジア福祉教育財団と私
⒈ 稿を起こすにあたり
昨年の秋、当財団の恒例の事業の一つであるが、アジアの国々から招いた人達の歓迎のパーティーで、たまたま理事長に所要があって私が挨拶することになり、この事業の歴史にふれたところ、パーティーが終わってから「その挨拶を記録に残しておいてくれたら」という意見が出てきた。それならということで、表記の題でこの一文を書くことになった。
もう 70 年近くの昔のことになったが、大東亜戦争に敗れた日本は、食料難で米も切符制だった。私は学校を出て旧内務省に入り、戦後は一貫して、その地方局(府県や市町村を所管)の系統の組織で仕事をし、最終段階では自治省事務次官であった。
外で仲間と食事したり、会合を持ったりするために使った場所は、赤坂見附の近くにあった小料理屋の「うたむら」だった。そこはまたアメリカ帰りで大阪府泉南地区出身の、松田竹千代さんのね城だった。そこで教わった一つに、アメリカ人は、何でもハイハイと応じる人物よりも、大いに意見を述べる人間の方を尊敬するものだ、ということだった。私がマッカーサー占領軍の事務当局と接触する際、そんな気持で対応するものだから、税制のことで占領軍側と話し合っての帰りに、大蔵省の主税局長さんが、「奥野君はズバリズバリ占領軍にもの言うんだね」と評したことを今に覚えている。
⒉ 創立時の想い出
その後松田さんは河野派の一員として、大阪府泉南地区の選挙区から衆議院議員として当選し、文相もつとめた。
ある時期、松田さんはベトナムのホーチミン氏に会おうとしたが、先方から「今はそんな時機ではない」と断ってきた、と聞いた。そのあと松田議員は自由民主党の両院議員総会で「日本は平和のうちに安穏にくらしているが、南ベトナムでは、戦闘が続き両親が殺され孤児が沢山生まれている。この孤児を救うぐらいのことをしてはどうか」と、提案された。みんながそれに賛同し、結局全議員が、毎月の報酬の中から月5千円、10 回で5万円宛拠出することになり、それを基本金として財団をつくることになった。
自民党総裁だった佐藤栄作さんが「松田君でまとめあげられるかね」と私に不安な顔をされたので、私の考えていることを順序を立て説明したら、あとは何も言われなかった。
松田さんは大まかにみえるが、議員秘書の黒正静子さんがしっかりしていてこの財団が創立の際から、その受領する金銭に対する課税免除をうける官庁の手続はすませてくれていた。そんなこともあり、この団体の役職員の定年制をきめたいというときに、団体創立の時にその役職にあった者にはこれを適用しないという規定をつけさせてもらった。創立のときのみんなの気構えにも貴重なものがあったと思っている。
⒊ ベトナムを視察
活動を開始する前に、現地を視察して今後の活動要領をしっかりきめる必要があるということで、何班かの視察団が送られた。最初の組に、私と衆議院議員の桜内義雄さんが加わった。
南ベトナムでは、日本の無償援助資金で建設された病院が立派な活動を続けており、好評をうけていた。私達を迎えてくれた日本の大使は北原秀雄さんで、東京の第一高等学校で彼は陸上競技部の選手、私は庭球部の選手で、京都の三高との間の毎年の対抗戦には、必勝を期しての「応援団の結成と選手の宣誓」の行事に参加してきた仲間だった。彼は現地に赴任した夜、どこからともなく「ピンピン鉄砲玉がとんでくるので、水を張っていない風呂にとびこんで、かがんだままで弾丸をよけた」と話してくれた。彼の連絡で米軍の大きなヘリコプターを出してもらい、南ベトナムを一周し、ところどころでヘリコプターを降りては、大きな爆弾を落とした穴をみたり、林間の建物のない中で行われている教育の現場を拝見したりした。澤山の弾丸や戦時用品の積まれた姿をみては、その後のベトナム側の急襲による米軍の敗北など予想もしなかった。
⒋ 理事長を受ける
こんな調査などで、私達の団体が何をすべきかが決まって行った。
それには、現地に孤児の為の職業訓練施設をつくる。その用地は南ベトナム政府が提供する。建物の建設には差当り日本政府の無償援助の資金を充てる。運営には当財団が責任を持つということだった。
万事順調に進み、孤児も収容し、松田理事長夫妻も住み込んで1年したとき、北ベトナム側の急襲により南ベトナムが崩壊、職業訓練施設も北ベトナムに接収された。その後当財団による施設の運営の目途が立たないまま松田理事長の健康に問題があり、あとを私に託して「やめたい」旨の申出があった。役員皆さんの賛成で私が松田さんのあとをひきうけることになった。
私が、「孤児収容所がどうなっているか」問い合わさせても返事がない、「薬品を送る」というと「うけとる」という、こんなことでは目途がたたない。他にも事情があって、今後の活動方針を求めて、秘書1人をつれ、東南アジアを廻ることにした。
⒌ 難民定住事業の始まり
話の多くは、旧仏領印度支那と言われた地域から共産主義化の波におそわれた人達の国外への逃亡という混乱だった。
日本ではまだ世界難民条約の批准はしていなかったので、表面的には難民の上陸は許していなかったが、既に相当数の難民が日本にたどりつき、宗教団体などのお世話になっていた。カリタス・ジャパンという団体が一番多くの難民をお世話してくれていたが「もうこれ以上は困難だが、施設をつくってくれたらお世話する余力はある」との話をきき、2,000 万円の金を渡したりして、その活動を援助していた。
また、旅行中「定住」という観念を理解したことなどもあって、帰国後、国会の予算委員会の場で外務大臣との質疑に1時間を頂き、難民対策の改善を主張した。それが、当財団の任務になったのだが、国会の会議録(P22 ~ P24 に掲載)にも書かれているので、ここでの話はしないことにする。
難民事業の委託をうけるに当って、当財団の組織に難民事業本部を置くこと、本部長は国家公務員を財団に出向させるから、財団の方で本部長として任命すること、さらに財団の名称に福祉の言葉が入っているので、難民事業はそれで読みとることにした。
その後、毎年決算で多額の剰余金を返上するので、使うべきものを使わないので出た剰余金ではないかと注意していたら、消費税を払えという問題が起こってきた。結局難民事業本部で負担しきれない数千万円をこちらで負担するなどをしてきたが、与野党の若い国会議員の中で、この難民に関する政府の委託事業を自分達でやりたいなどの動きがあったりした。
難民定住のための施設は、最初は神奈川県大和市と兵庫県姫路市に設置されたが、中曽根首相のとき「もっと大勢を収容できる施設をつくるべきだ、栃木県の方で民間企業が大がかりな宅地開発事業を進めているので、そこを利用できるのではないか」との連絡があった。そこで栃木県を選挙区にしている藤尾正行代議士に頼んで交渉してもらったが「住民が不安がるので」ということで受け入れてもらえなかった。私は「寧ろ都会の方が受け入れてもらえる可能性が大きいのではないか」と東京都知事に相談したら「旧国鉄が品川辺に広い埋立地を持っている。そこの一部は譲ってもらえるのでは」とのアドバイスがあった。
早速話をしたら、気持よく譲ってくれた。そこに当面 500 人ぐらいの難民を受け入れられる施設をつくってくれて、開所式には中曽根首相に、理事長の私も参加し、そのあと難民との座談会もしたものだった。
ベトナム、ラオス、カンボジアを逃げ出した難民の一番行きたがったのはアメリカ、次はフランスなどであって、最初から日本を求めて逃げてきた人は少なかった。
しかし、1年の定住であれ、2年の定住であれ、落ちつけるようにするには、額に汗してそこで得た収入で生活できるようにすることだと考え、私も難民事業本部長と共に街頭に出て、難民雇傭への協力を訴えたものだった。
同時に、秋には「難民を励ます」というか「難民と共に語る」というか、毎年定住難民のための大会を開いてきた。これには品川区役所が協力してくれたが、今は、難民の拠点が品川から新宿に移り、大会開催の協力などは新宿区役所のお世話になっている。
難民として日本にきた人達の多くは、今では、日本の永住権を持ち、併せて本国の国籍も持ちたいという形の人が多いのではないかと思う。私としては「日本にきてよかった」という印象を持ってもらえるようにするのが、大切だと言い続けている。これらの定住難民の多いところでは、難民の手によるお寺のようなものができていて、宗教施設と共に集まりの場所にもなっている。そんな場所にはお祝いに出かけたりしている。
⒍ アジアとの人材交流
私が理事長を引き受けてから始めた事業に、アジアの国々から社会福祉にかかわる人を中心に、毎年5人ずつ日本に招く事業がある。お互い交流を重ねることが、相互の理解を深めることになる、理解を深めることが協力に発展し、協力は地域の安定に連なる、との期待で始まった。
当初ベトナムの孤児を救援する事業を始めた時は、「中華民国台湾」が、中国を代表するものは一つであり、それは自国だと称し、国連の一員でもあった。ところが、国連総会で中国を代表するものは、面積や人口などからみて「共産主義の中華人民共和国ではないか」との説が出始め、昭和 47 年日本の田中内閣が、中国を代表するものは、中華民国台湾ではなく共産主義の中華人民共和国だ、ということにした。
翌年、アメリカも中国を代表するものは、台湾ではなく、北京の中華人民共和国であると切りかえたが、さすがに、台湾との関係は従来の立法通り維持するとしている。
日本では、日中の交流を図る多額の国庫補助金をうける団体が生まれたので、私達の団体は中国大陸との交流はそちらに任せ、従来通り台湾との関係を続けることにしている。ただそれは、中国を代表する台湾ではなく、形式的には地域を代表する台湾ということでなければ、大陸の中共が納得してくれないらしい。
もう一つ韓国との関係がある。夫人が日本人で、その夫妻で韓国において孤児収容施設を経営して成果をあげていた。援助の為に私達の団体から 2,000 万円の寄附金をおくり、順調な日韓関係であったものの、何時しか韓国の中に排日施設が強化されてきた。これでは、日本が招いても日本に来にくいのではないかと思い、日韓関係が正常化するまで我々からの招聘を中止し「日韓関係が正常化したあかつき、更めてお招きしたい」と申し送ったら、先方も「そうして欲しい」ということであった。
⒎ 財団ビルを建設
外国との交流の多い団体は、よい場所に事務所を設け、経済力にも不安がない、ということが大切だと思い、この団体の事務所の用地について鈴木東京都知事のお世話で得られたことを書き添えておきたい。始めは四谷駅附近、次は新宿駅附近の土地を提示してくれたが、何れも満足できなかった。都知事は局長さん達を集め、積極的に協力を求めてくれた。おかげで、地下鉄の駅のまん前で、東、南、西の三面が道路になっている現在地を提示してくれた。これを提供する代わりに「必要最少限度にして欲しい」ということから分譲は半分にさせてもらった。住宅地区になっているので、ビルは4階建てにしかできない。都市計画が変われば6階建てにできる設計にしているが、その是非はその時に考えればよいことだろう。
私は、理事長を約 32 年もつとめたので、今は名誉会長をつとめさせて頂いている。しかも、昨年満 100 才になった。なお健康に恵まれている。私のできることは何だろうかと考え、それは財団の財政力の強化に貢献することだろうと財団への寄附金を思いついた。ということでまとまりが悪くて恐縮ながら私の最初の話を終わらせて頂く。 (平成26年「愛」第37号より)
表彰実績
感謝状
感謝状
国連難民高等弁務官事務所駐日代表
イクバリ・アリ・モハメッド
盾
盾
フィリピン、バターン州ピラール市長
感謝状
感謝状
法務大臣 梶山静六
表彰状
表彰状
外務大臣 渡辺美智雄
表彰状、副賞の盾
感謝状
副賞の盾
内閣総理大臣 村山富市
顕彰碑
顕彰碑
国連難民高等弁務官 アントニオ・グテーレス(元ポルトガル首相・現国連事務総長)が26年間の難民定住支援に感謝